まこっ鑑賞録

読みたい!見たい!と思ったものを鑑賞し、そのまんま感想述べてみるブログ

読書百冊(8)『老人と海』ヘミングウェイ著

ヘミングウェイといえばこれが出てくる。老人が海で大魚と戦う。言ってみればただそれだけの話だが、男のロマンをくすぐってくれるような展開となっている。

 

サンチャゴは孤独な漁師であり、近所の少年とのみ心を通わせている。少年には漁を教えたりするものの、彼自身はもうすっかり成長して、一人でも十分やっていける。だから海では独りで漁をする。そして基本的に大物狙いをするため、不漁の時は数日続いたりもする。

 

ある時、久々に引っかかった超大物のメカジキを釣り上げようとする。しかしやはり相手は強敵で、苦戦が続く。さらに海の中には凶暴な奴らもいて…

 

老人といえどもなかなか強靭な肉体と精神の持ち主である。普通なら諦めてしまいそうなところでも踏ん張ってみせる。自分の状況やその場にあるものだけを最大限に利用しようとする執念である。若さではなく、熟練といった感じを備えているのだ。こんな風に歳をとりたいと思える。また孤独に打ち勝つ様も見て取れる。少年を乗せなかったことを多少悔やみながら、会話相手がいないので、独り言ばかり続く。しかしそれは、自分を奮い立たせたり、魚に声をかけたりするためである。己を制御するために静寂の中で言葉を使い続ける。

 

物語の後半では緊張感溢れる展開が急激に始まる。釣り上げて物語は終わり、とはいかない。そう、サンチャゴは100%の成功を収めたわけではない。だが悲しみは湧いてこない。男とはどういうものかをサンチャゴが教えてくれる。

 

さて、ヘミングウェイの年譜を見ると彼自身もよく魚釣りに出かけていたようである。大自然を相手にして戦いを挑んでいく描写はお手の物であっただろう。戦争に対してのルポ的な著作も有名だが、人と人との争いに辟易した結果自然の脅威と戦うというのは、彼が戦いとはどのようなものであるべきかを説いているような気がする。自然に勝つということは即ち己に勝つことでもある。なんだかそんなことが読み取れた気がした。

 

と、これまで非常に綺麗な面ばかり見えているが、個人的にはヘミングウェイの考える愛情観も気になるところである。彼は生涯で妻を4人持ったという。なかなか屈折した愛情を抱えていたに違いない。「老人と海」は大海原での孤独を描いたものである。内面だけでなく、人間関係をドロドロと描いたら面白いだろうな、と考えた。探せば見つかるだろうか。とりあえず次は戦争もの(武器よさらば等)を読んでみよう。

 

 

 

 

 

読書百冊(7)『銀の匙』中勘助 著

どこぞの進学校で教科書替わりに使われていたと名高い小説である。最初に言っておこう。銀の匙は序盤でしか登場しない。しかし、思い出を振り返る1つのスタート地点である。

 

執筆時期及び時系列に従い、前編と後編に分けられている。前編では幼少期の思い出、後編では少し成長してからの出会いと別れが振り返られている。非常に読みやすく、自身の心情と織り交ぜながら淡々と小エピソードが書き連ねていく。

 

主人公は病弱に生まれ、伯母さんの元で育つことになる。気弱で優しく、それでもって頑固な少年であったため、友人とも大して仲良くできず、歪曲した思いを胸に日々過ごしていた。そんな中、お国ちゃんやお蕙ちゃんと出会い、少しずつ世の中の過ごし方や自分の立ち位置がわかってくる。己の弱い部分に正しさを信じ、それでいいやと日常を独自の切り取り方に従って過ごしている。私もたまには幼い頃の純粋さを懐古したりするが、純粋とはそういうものだった気がする。純粋はときに鋭い。そして周りからは歪んで見える。

 

彼は成長してから、少しばかり「歪んだ」思いは抱きつつ、社会の毒気に慣れていった。なんとも思いようのなかった出会いと別れについても、より深く考え始める。人と接するということは必ず出会いと別れを経験するということである。時折切なさを凝縮したような表現が含まれており、美しさを感じる。ラストシーンは大きな展開こそないものの、物語の儚く美しい瞬間を捉えた最高のものと思われる。

 

文全体を通してこの当時の日常風景の描写が事細かにされていて、なおかつそれが適切に選び抜かれた言葉で連ねてあり、色彩溢れる情景が目に浮かぶ。空気の匂いまで嗅ぎ取れるようだ。未来のことや経験しえないことに関してはここまでの表現は不可能であろう。昔を懐かしんだ文を書くには圧倒的にリアルでありそして心を掴む表現が必要なのだと感じた。こうした繊細な表現が巧みに使われているのが教科書替わりになる理由なのかと納得した。

 

余計な起承転結などは要らない。淡々としながらも心を繋ぐ表現が出来るのは本当に素晴らしい。そしてこの物語に出てくる強きものと弱きものの対比を、現代に当てはめて考えてみても面白いと思う。皆がみな強さに向かっているわけでもない。そして平等にならずとも、たとえパワーとしては弱くとも、それぞれの正しさのもとで貫くことの方が大事なのではないだろうか。一人一人の正しさが全体の正しさではないかもしれないが、 きっとそのあたりの調整は世界が為してくれる。

 

げっそりとした気分で過ごすことも多かったため、(強過ぎない)美しさに触れられて、良い機会だった。

読書百冊(6)『哲学の使い方』鷲田清一 著

鷲田清一と言えば入試国語でよくお世話になったりするあの哲学者である。関西にゆかりがあるため、もしかしたら私のこれからにおいて繋がりを持つ場面があるかもしれない。割と文体が好きなタイプである。

 

この本は、読んで字のごとく、哲学の『使い方』を提案している。哲学とは使うものなのか?という疑問がまず出てくるかもしれないが、そのあたりもしっかりと論理立てた説明がされているので、タイトルで惹かれた人はぜひ読んで欲しい。学問として我々の目の届かない範囲で展開されている「哲学」と、私たちが日常に感じている自らの生き方の指標となるべくして存在する「哲学」を結んで、実はそれは同じものであり、切り離して考えるべきではない、という結論へと手繰り寄せている。私にとって「哲学」はどちらかというと前者であり、後者なんぞは一人一人の思い込み、偏見の別名でしかないと思っていた部分があるため、目から鱗であった。しかし、哲学は本来は己の経験から発生する日々の事象の分析データなのだろう。考えを改めねばなるまい。

 

本書の中盤はぐっと話が難しくなり、正直ついていけなかったところも多い。だが読み飛ばすべきではない。哲学の居場所は結論ではなくその過程にある。なんだかよくわからないものを、なんだかよくわからないままにしておく技術。そういうのが哲学であって、下手に自己解釈するよりかはほかっておく方が大事だというのが筆者の考えである(合っているだろうか…)。物事に早急な答えを急かしがちな我々の社会だが、「いやいやちょっと待て」と言い出せる精神性を獲得していくのも良かろう。思考の耐久性というか、無数の出来事にどこからどこまで立ち向かっていくか、そういうエネルギーの分配をもっと上手くやっていかないと、この社会で激流を遡ることは難しい。

 

鷲田氏の研究室の取り組みとして、哲学カフェなるものが取り上げている。簡単に言えば、哲学の専門家でもなんでもない市井の人々で集まり、それぞれの日常の話題をもう一回考えてみようという会である。当たり前すぎることを当たり前じゃないじゃんと気づけたらそれは大きな成果である。ママ友って何?なぜ働くの?勉強は大事なの?そんなあたりがゴールである(そしてスタートでもある)。思えば私も自分で日常についてのことを考えたりはするが、他人から発せられる発言から何かを導き出すというのはあまりやってこなかった気がする。他人に耳を傾ける大切さはそこにあるのではないだろうか。もっと聞き耳立てて生活していこう。そして交流しよう。はっとした気づきに遭遇出来たらとても幸せだ。

 

自分が悩んでいるときにこの本に巡り会えて良かった。どうしたら良いんだ、となったらまた手に取ってみよう。語りたいことはたくさんあるが、それは次に読んだ時にする。

 

 

読書百冊(5)『変身/掟の前で 他2編』カフカ著

『変身』はカフカの中でもトップクラスに有名なものであろう。主にそれ目当てで読んでみたのだが、他の作品も面白かった。カフカ初心者である私にとってカフカはあまりに一瞬の出来事だったように思われる。

それぞれの作品について述べる。

 

判決

主人公が友人について語りだし、なんて哀しげな友人なんだろうと思わせておいてからの、斜め上からの展開が降ってくる。主人公と父の会話がちぐはぐなままに進行し、どちらが正しいのかわからなくなってくる恐怖がたまらない。およそ数分間の場面を切り取り、言葉にしている。突然の出来事を目の当たりにした感覚でたる。カフカが一晩で書きあげたそうな。なるほどと思った。まともな状態では生み出されないだろう。

 

 

変身

冒頭は知っていたが、最後までは初めてである。会社員グレーゴルは、ある朝、虫になっていた。会社はおろか家族としても生活できない。グレーゴルの苦しみと家族の苦しみが入り交じりで描かれ読んでてしんどくなるが、カフカはこれをなかばコメディーの如く人々に紹介したらしい。その要素はわからなくはないが、出勤を強要されるシーンとか家族に迷惑をかけてるシーンとかはなんだか自分を見ているようで、この虫って今の自分なのでは?とすら思ってしまう。気持ち悪さを気持ち悪いまま書き連ねていく手法が効いていた。救いのない物語はあまり好きではないけれども、これはなんだか良かった。

 

 

アカデミーで報告する

サルに芸を教え続けたらヒトみたいになるのか、と考えたことはあるでしょ?ないですかね?

この話はサルが自発的にヒトの仕草を教わり知能を得た体験談である。サルはそれをヒトの言葉で報告しているのだ。サルから見たヒト、ヒトから見たサル、サルとヒトとの違い、動物の定義、とか、いろいろな視点でこの物語を探ることが出来る。ヒトとヒト以外の動物の認知を比較する研究に携わっている私にとってはちょいと興味があるお話であった。カフカは暗いイメージがあるがこれは明るい方ではないだろうか。

 

 

掟の前で

短い話なので何を言ってもネタバレになってしまうのだが、己の考える掟(約束、守るべきもの?)について再考する名作である。自分は死ぬまでにこのもどかしすぎる掟とやらを突破することが出来るのか、それとも無理なのか、そもそも触れるべきでないのか、一人一人に思う部分はあるだろう。私は自分でルールを決めがちなのだが、果たしてそれでいいのか、どうすればいいのだろうか。

 

カフカはあまりに瞬間的だ。

なんだったんだ今のは……という衝撃だった。

読書百冊(4) 『ひとはなぜ戦争をするのか』A・アインシュタイン S・フロイト

タイトルよりも著者に惹かれて読むこととなった。アインシュタインフロイト?そんな著名人2人が連名で文を書いたとは、どういう経緯があるんだ?どうやら1932年国際連盟アインシュタインに「いちばん意見を交換したい相手と書簡を交わしてくれ」と依頼したらしい。選んだテーマは戦争、相手はなんとフロイトだった、という訳だ。

 

物理学者の最高峰と先進気鋭の心理学者、一見交流することないこの2人に共通するテーマ、戦争。私はもちろん戦争に反対し平和を望む一市民である。しかし戦争が悪だと分かっていながら、どうして日清戦争日露戦争で日本が勝利した史実を誇らしく思えてしまうのだろう、と昔から矛盾した想いに疑問を持っていた。本著で問われているのは、戦争はなぜ発生しどうして無くならないかということである。その根底意識として、戦争の正当性についても考えなければならないだろう。戦争とは悪ではあるが正しいものではないのか?際どいところに踏み込んで考える機会を与えてくれる。

 

アインシュタインといえば相対性理論を発表し、原子力の発展に多大な貢献を残した人物であり、もはや多くの説明は要らないだろう。彼は後年原爆作製について思い悩み、平和活動を本格的に始めることになる。一流の物理学者であるから余計に責任を強く感じていたのだろう。科学によって人の文明が壊されていく様を嘆き、人が戦争しないためにはどうしていけば良いか、ということを心理の面から解き明かして欲しいとフロイトに頼んだようである。

 

フロイトもあのアインシュタインからとなると流石に困惑したようで、とりあえず己の知識と慎重な予測を基にした応答の手紙を出した。フロイトはエロスやタナトゥスといった用語を用いて、戦争に向かう心理はこのようなものだ、という説明をしている。我々の持つ破壊衝動的側面や、権力と暴力といった社会学的知見が、フロイトによって詳しく述べられている。

 

読んでみた文面から察するに、両者とも自身の持ちうる知識をどう利用していけば良いか葛藤を抱えていたに違いない。そんな両者が交差し合うこの往復書簡は人類にとっても重要な地点である。幾度か読み直して己の正義に問いかけてみたいと思う。

 

戦争は、そのスタイルは変わりながらも、現代において未だ残る人類の課題である。中東地域のニュースは絶えることなく日々流れ込んでくる。平成が終わり、今ふたたび時代について考えるべきタイミングが来ている。本著を読んで各々考えをめぐらせてみてはどうだろうか。

読書百冊(3)『旧約聖書 天地創造 創世の書』フェデリコ・バルバロ訳注

この度、なんとなく旧約聖書を手に取ってみた。

私は宗教に特別な知識があるわけでもなく、信心しているわけでもない。しかし未知の領域があるのは些か満足に欠けるところがあり、こんなに有名な本に触れてこないのはよろしくないと思ったのである。

 

この神話において前もって知っていたことは

・神が「光あれ」と言ってから世界が誕生した

・最初の人間のアダムとイブがエデンの園でなんたらかんたら

・ノアが方舟を作って生き残った

バベルの塔が崩壊!言語がばらばらに

・ソドムとゴモラがどこかのタイミングで滅んだ

ぐらいだった。ここらの題材は多くの作品でモチーフにされていたりするので期待していた。

 

私の持っていたエピソードは意外と序盤で消費されることになった。神が世界を作り、人を作り、人はたまに調子に乗っていたので最初は罰せられたり、と神話らしい展開となって面白かった。読む前は上記のエピソードの順序が全然わからなかったのですっきりした。

この頃に登場する人はみな長寿である。神との繋がりがまだ濃いのだろう。神は試行錯誤していたようだ。人1人ずつの意思というより、神の視点で世界を俯瞰する体験を得ることが出来る。

ノアが息子に裸を見られてキレるシーンなども面白い。お前そんなやつだったのかよ。

 

中盤になるとアブラム(後にアブラハム)が登場する。ここから話のペースが数年刻みに近づき緩やかになる。オリエント世界の民族の由来を事細かに記しているのであろう。読んだ限りアブラハムはかなり善意に満ち溢れた好々爺という印象だ。主である神が傍に来て呼びかけ、それを素直に聞き入れる姿は感動ものである。苦難にも耐え成長するアブラハム。好きになる。

 

イサクとかヤコブが出てきて、ちょっと人間味があるキャラクターが増えてくる。神には従うが、自分の抱える問題については狡猾に解決していく。おいおいと思ったりもするがエピソードが面白いので飽きない。結婚や子供関連でよく揉めている。一夫多妻だから余計に。

 

さて、この本の終盤のヨゼフである。ヤコブの息子の中でも特に変なやつで、夢のお告げに詳しく、自分が出世すると言って兄たちから嫌われ、エジプトに売られてしまう。ほんと可哀想。しかしエジプトではうまーいことやって、得意の夢のお告げもフル活用し、ファラオと同等レベルまで上り詰める。

オリエントの飢饉を予想したヨゼフは対策を講じ、穀物の貯蓄に成功する。兄たちのいる周辺諸国は飢饉で困窮したため、エジプトまで行き頭を下げ貰いに行く。兄たちはそれがヨゼフだとわからなかったが、弟を売ったことを物凄く反省してる模様で、ヨゼフは陰で泣いてしまうのだった。とまあ感動シーンがあったりする。ここまで来ると神はあまり登場しないが、とても気に入ったエピソードである。

 

難しい印象があった創世記だが、普通に読み物として面白かった。怖がらずぜひ読んでみて欲しい。章ごとに解説もしっかり付いてるので理解しやすい。

 

さあ、次は新訳聖書かな?と思ったが、一方、もうキリスト来ちゃうの?となる。そう、ヨゼフが死んでからブランクがあるのだ。実は創世記、旧約聖書の中でも序盤の1冊らしい。全部読むの大変だわ。まあいいや。次は新訳聖書読も。

 

 

読書百冊(2) 「日本人の英語」マーク・ピーターセン著

私は英語に関して、というより語学全般に関して多少の苦手感を抱いている。基本文法や単語を覚えて、こんな感じだろうと組み立ててみても、綺麗な英作文にならない。読むのもひと苦労する。何故だろうか。

 

それは英語と日本語の差を感じていないからである。

 

本書は日本人が陥りやすい英語の落とし穴を、我々にとって実に想像しやすい形で教示している。「これを覚えれば〇〇!」とか、「重要単語1000!」みたいなキャッチーな内容ではない。しかし、一つ一つの前置詞やイディオムについて正しいイメージを持ってもらうことに重点を置いているため、読む英文が全く違う印象を持って現れるのだ。

 

英語は日本語文法と構造が違う。語彙も1対1で対応するとは限らない。時制などの概念についてもより厳密に捉えている。onとoffの対立概念がイディオムになるとどう解釈したらいいのだろうか?完了形とか進行形ってどう使い分けるんだろうか?中学高校時代にモヤモヤしたまま放っておいたポイントに直接突っ込んでいくスタイルがとても魅力的だ。筆者が日本語に堪能であるため、日本人はこう考えがちだけど実はこれはそのまんまは通用しないんだ、とか、日本語では違うように聞こえるけど英語的には一緒なんだ、とか両者の立場がはっきりしている。身近な話題から切り込まれるので読みやすいだろう。英語学習に疲れてしまった人や英語って難しかったなという思い出がある人こそ読んでみてほしい。

 

さて、日常学習において英語的な感覚をどのようにつけたら良いのだろうか?こんなに違うのにひたすら暗記なんだろうか?いや、それはやはり一つ一つの単語を説明できるように訓練せねばならないのだろう。

 

英語に苦手意識のある私だが、実は偉そうに塾のバイトで英語を教えていたりする。英語なんて見たくもないという生徒に対し、ただ暗記しろというのは酷だと常々感じている。まずはイメージ出来ることが最優先だ。法則性云々も大事だが、イメージ(=捉えどころ)を見つけてあげる、そういった指導が出来たら理想的だと思った。と同時に、昔そうやって教えて貰えてたらもうちょっと好きになれたのかなとも思った。

 

本書を読んで英語を勉強したいとまでは至らなかったが、英語についてもう一度根本的に考えてみたいとは思った。特に日本人にとっての英語とは、ということに関しては昔から腑に落ちないところが多多あったので、決着をつける意味でも追求していきたいと感じた。