まこっ鑑賞録

読みたい!見たい!と思ったものを鑑賞し、そのまんま感想述べてみるブログ

読書百冊(6)『哲学の使い方』鷲田清一 著

鷲田清一と言えば入試国語でよくお世話になったりするあの哲学者である。関西にゆかりがあるため、もしかしたら私のこれからにおいて繋がりを持つ場面があるかもしれない。割と文体が好きなタイプである。

 

この本は、読んで字のごとく、哲学の『使い方』を提案している。哲学とは使うものなのか?という疑問がまず出てくるかもしれないが、そのあたりもしっかりと論理立てた説明がされているので、タイトルで惹かれた人はぜひ読んで欲しい。学問として我々の目の届かない範囲で展開されている「哲学」と、私たちが日常に感じている自らの生き方の指標となるべくして存在する「哲学」を結んで、実はそれは同じものであり、切り離して考えるべきではない、という結論へと手繰り寄せている。私にとって「哲学」はどちらかというと前者であり、後者なんぞは一人一人の思い込み、偏見の別名でしかないと思っていた部分があるため、目から鱗であった。しかし、哲学は本来は己の経験から発生する日々の事象の分析データなのだろう。考えを改めねばなるまい。

 

本書の中盤はぐっと話が難しくなり、正直ついていけなかったところも多い。だが読み飛ばすべきではない。哲学の居場所は結論ではなくその過程にある。なんだかよくわからないものを、なんだかよくわからないままにしておく技術。そういうのが哲学であって、下手に自己解釈するよりかはほかっておく方が大事だというのが筆者の考えである(合っているだろうか…)。物事に早急な答えを急かしがちな我々の社会だが、「いやいやちょっと待て」と言い出せる精神性を獲得していくのも良かろう。思考の耐久性というか、無数の出来事にどこからどこまで立ち向かっていくか、そういうエネルギーの分配をもっと上手くやっていかないと、この社会で激流を遡ることは難しい。

 

鷲田氏の研究室の取り組みとして、哲学カフェなるものが取り上げている。簡単に言えば、哲学の専門家でもなんでもない市井の人々で集まり、それぞれの日常の話題をもう一回考えてみようという会である。当たり前すぎることを当たり前じゃないじゃんと気づけたらそれは大きな成果である。ママ友って何?なぜ働くの?勉強は大事なの?そんなあたりがゴールである(そしてスタートでもある)。思えば私も自分で日常についてのことを考えたりはするが、他人から発せられる発言から何かを導き出すというのはあまりやってこなかった気がする。他人に耳を傾ける大切さはそこにあるのではないだろうか。もっと聞き耳立てて生活していこう。そして交流しよう。はっとした気づきに遭遇出来たらとても幸せだ。

 

自分が悩んでいるときにこの本に巡り会えて良かった。どうしたら良いんだ、となったらまた手に取ってみよう。語りたいことはたくさんあるが、それは次に読んだ時にする。